ようやく秋の気配を感じ始めたこの十月の初め、料理評論家として活躍されていた服部幸應氏急逝の訃報に接することになりました。
料理学校の校長先生にしては料理をしているところを余り拝見したことがなく、日本におけるフランス料理の普及に尽力された辻調理師学校の創設者、辻静雄(1933~93)氏を彷彿させるものがありました。服部先生と言えば、『料理の鉄人』、辻氏と言えば『料理天国』とテレビで美食の普及に大きな役割を果たして下さいました。
この二〇二四年は年明けの一月には日本におけるワイン界の大御所、山本博先生が九十二歳で亡くなりました。筆者がボルドーワインを極めようと常に手元に置いてきたペパーコーン『ボルドーワイン』(早川書房)をはじめ、アレクシス・リシーヌ『新フランスワイン』(柴田書店)などワインに関する翻訳本のほとんどが山本先生の手になるものです。また、実に多くのワイン本を執筆されてきました。
ペパーコーンの翻訳の監訳者紹介にもありますように、冒頭、肩書として「弁護士」と書かれるのが通例でした。ワインを100点満点で評価する日本人が大好きな「パーカースコア」を始めたロバート・パーカー・ジュニアもまた「弁護士」出身。マイケル・ブロードベントやエレナ・サトクリフは「サザビーズ」のオークショナー、『ポケット・ワインブック』のヒュー・ジョンソンもワイン愛好家を自称するワイン評論家。ワインのスペシャリストは「ソムリエ」ではないのです。「ソムリエ」はワインをサーヴィスするサーヴィスのスペシャリストであり、ワインを売らねばなりません。批評家=評論家はあくまで客観的にワインを評価する必要があります。「ソムリエ」という立場はそれに相応しくはないことを再確認すべきです。
山本先生と言えば、どうしても翻訳に目が行きがちですが、筆者は人からワインを始めるにあたって何か参考になる本はないかと尋ねられたら、迷わず、山本先生の『わいわいワイン』(柴田書店)を挙げます。山本先生はワインの歴史を重視される方でしたので、多くの本は歴史に関するやや硬い感じの本が多かったのです。そんな中、ワインを楽しむために必要な知識を軽妙な語り口で、しかも格調高く的確に提示されている『わいわいワイン』はワイン愛好家を自称する者は所持すること必須と言えましょう。
例えば、マイケル・ブロードベントの『ヴィンテージ・ワインブック』を携帯する必要性を説かれていますが、筆者も早速購入しました。翻訳はもちろんありませんので英語の原書だったのですが、オークショナーのブロードベントはフランス革命時代に造られたシャトー・マルゴーなどのテイスティングも行なっており、その時代から1980年代までヴィンテージごとに主要なワインのテイスティングコメントを掲載。
実に興味深く、ヴィンテージワインを飲むにあたり、大変参考になりました。
そう言えば、一九九〇年代半ばフランスワインを始めるあたり山本氏の本にお世話になったのに対し、大学生になった一九八〇年、フランス料理を食べ歩き始めた頃、何を頼りに「美食」を考えようとしたのか。
もちろん、辻静雄氏の本も読みましたが、やはり教科書というか啓蒙的な筆致がまだひよこだった筆者には親しみやすくはありませんでした。
そんな中、フランスの香りを筆者に伝えてくれたのが意外にも現代音楽作曲家の三善晃(1933~2013)先生が書かれた『男の料理学校 自分の味を創造しよう』(カッパブックス、1979年)でした。光文社の新書版「カッパブックス」は当時、実用書と教養書の中間というか、絶妙なスタンスでベストセラーを多数出していました。筆者が大学でお世話になった心理学者多湖輝先生の『頭の体操』などがその好例です。
ちょうど新刊だったこともあり、パリ音楽院に留学された三善先生がかの地で自炊され作られたオムレツの話など、文章もお上手で、「美食」としてのフランス料理を極めたいとおぼろげに思っていた筆者には、まさにパリが彷彿と感じられ、怖いもの知らずのフレンチ食べ歩きを始めるきっかけになったのは確かです。
また、当初筆者はワインなど酒類をほとんど嗜みませんでしたので、フランス料理以外にも様々な食べ歩きを行なっていました。その際に大いに参考にさせていただいたのが映画評論家として活躍されていた荻昌弘(1925~1988)氏の食に関する著書でした。
荻氏は今で言う「男厨(ダンチュウ)」、即ち「男の料理」のパイオニアの一人で『男のだいどこ』は一九七二年に公刊されています。筆者が手にしたのは文庫本になったばかりの『大人のままごと』(文春文庫、1979年)だったかもしれません。
その立ち居振る舞いというか、「食通」気取りを蔑み、あくまで自身を「食いしん坊」と呼ぶその洒脱な感じが素晴らしく、筆者が感動したのが「サンドウィッチハウス グルメ」を贔屓にしている文章でした。「サンドウィッチハウス グルメ」は空港や新幹線の駅に展開したサンドウィッチ専門店。今から半世紀も前のことです。サンドウィッチといえば、喫茶店で出される手軽な軽食というのが常識だった時代、クラブハウスサンドやエビフライが挟まったサンドウィッチなどちょっと贅沢で高価なサンドウィッチだけを提供する「サンドウィッチハウス グルメ」は大学生になったばかりの筆者にはちょっとした高嶺の花でした。(ちなみに「グルメ」は現在、唯一、那覇空港で営業しているとのこと)。
荻氏はその贅沢感が空港や新幹線の駅に出店している理由であること。そして、それをどのように活用するかが「食いしん坊」冥利に尽きるかを書かれていました。出発まで時間があれば、立ち寄ってゆったりと併設のレストランで出来立てを堪能する。時間がなければ、テイクアウトして、車内で駅弁代わりに楽しむ。
筆者も荻氏の本に後押しされ、当時、船橋東武のレストラン街にあった「グルメ」に一人で食べに出かけたものです。喫茶店のサンドウィッチとはまた違ったまさに「専門店」の味に感動し、駅や空港でも立ち寄れるようになりました。当時、船橋東武のレストラン街にはアメリカで成功したロッキー青木(1938~2008)氏の洋食店「紅花」(タンシチューが絶品でした)、上野精養軒もあり、また、船橋西武には一時期、高輪プリンスホテルのメインダイニングとして有名なフレンチ「ル・トリアノン」の支店があったり、デパ地下のイートインにはローストビーフの「鎌倉山」、ドイツ料理の「ローマイヤ」などもあって、東京まで行かなくても船橋西武の「リブロ」や船橋東武の「旭屋書店」へ本を買いに行くついでに食べ歩きする機会を得たものでした。
筆者の「美食」への誘いに貢献下さった、三善先生、荻氏に心から感謝する次第です。
最後になりますが、この五月にはカレー博物館初代館長を務められたカレー評論の第一人者小野員裕氏が急逝されました。筆者は縁あって、親しくさせていただいておりましたので痛恨の極みといった思いです。筆者の二歳上でいらして、ほぼ同じ年ですのでショックでした。ここのところ、お目にかかる機会がなかったのですが、本を立て続けにお出しになられて、その活躍ぶりを頼もしく思っていた矢先の訃報でした。遺作も公刊されました(『小野員裕の鳥肌が立つほどいい店、旨い店』(八重洲出版))。
心から哀悼の意を表させていただきます。
今月のお薦めワイン 「イタリア最北のピノ・ネロを楽しむ――トレンティーノ=アルト・アディジェ州のワイン――」
「ピノ・ネロ『ヴィーニャ・カンタンゲル』 2021年 DOCトレンティーノ マソ・カンタンゲル」 9000円(税抜)
今年最後のイタリアワイン。何にしようか迷いました。王道のピエモンテとトスカーナ。そして、ロンヴァルディアのピノ・ネロ。最近はブルゴーニュ好いていますのでここは再びピノ・ネロで、産地を珍しいところでいかがか、と。
そこで思い浮かんだのがイタリア最北の州、トレンティーノ=アルト・アディジェ州で造られるピノ・ネロのワインという訳です。
トレンティーノ=アルト・アディジェ州はボルザーノを中心とする北部のアルト・アディジェと州都でもあるトレントを中心とする南部のトレンティーノが合体した州です。最北と言われる通り、北に接しているのはオーストリアのチロル地方。そこで、アルト・アディジェは「南チロル」とも言われています。そして、オーストリアはドイツ語圏ですので、この州の人々はドイツ語が堪能。従って、フランスのアルザス地方と比較され、造られているワインも似た傾向があると言われています。つまり、白ワイン中心で赤は地品種のテロルテゴも有名ですが、アルザスがピノ・ノワールだったようにこの州でもピノ・ネロが造られているのです。ちなみにカベルネ・ソーヴィニヨン、メルロも造られています。
ロンヴァルディアがシャンパーニュと同じ品種で「フランチャコルタ」を造っているのでピノ・ネロが栽培されているのと対照的です。
という訳で、アルザスのピノ・ノワールと比較するつもりで選んでみました。
選んだワインの造り手はマソ・カンタンゲル。DOCトレンティーノから分かるように、トレントの街のすぐ東に位置するチヴェッザーノにあるカンティーナです。2006年、フェデリコ・シモーニが創業。6haの畑を所有し、2008年の初ヴィンテージ以来、自然派のワインを提供しています。
通常のキュヴェよりも限定された畑の上質の葡萄から造られ、バリックで12か月熟成したワインは力強くもエレガントな仕上がりになっています。
前回のロンヴァルディアのイジンバルダのピノ・ネロと比較して飲んでいただければ幸いです。
略歴
関 修(せき・おさむ)
一九六一年、東京生まれ。現在、明治大学他非常勤講師。専門は現代フランス思想、文化論。(一社)リーファーワイン協会理事。
著書に『美男論序説』(夏目書房)、『隣の嵐くん』(サイゾー)など、翻訳にオクサラ『フーコーをどう読むか』(新泉社)、ピュドロフスキ『ピュドロさん、美食批評家はいったい何の役に立つんですか?』(新泉社)など多数。
関修FACE BOOOK
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